2024引退ブログ 4年 10 井上 広淳 「赤の10」

はじめに

2024年10月20日16時30分。酷暑を忘れさせてしまうほど透き通った空気の中を3度のホイッスルが鳴り、大学サッカーの幕が下りた。終わってみれば、上位神奈川工科大学に5-2と圧勝。緊張のせいか普段より遠くから聞こえる大声援の中、不思議なほど東工大のシュートがゴールに吸い込まれていき、相手の決定機がポストに嫌われた。個人としても足が震え、視野にもやがかかっていたがそれでもいつもより走れたし、周りが見えた。試合中に、『こんな時間がずっと続いてほしい。』と思った自分に、『勝ってる試合でそんなこと考える奴いないだろ。』と突っ込む余裕さえあった。この試合はまるで夢の中にいる気分だった。試合後応援席に挨拶に行ったときに、信じられないほど多くの方が来てくださったことを目の当たりにしてやっと現実に戻った。試合の前日に緊張で寝られない自分にとってはあまりにリアルで長すぎる夢だった。
仏教用語に由来する「無我夢中」という言葉がこの状況を説明できるかもしれない。これまでは自分が試合に出る、自分がゴールを決めるしか考えられなかったが、その己への執着を脱してチームに貢献しようと考える「無我」の境地に至り、「夢中」になって勝利を目指していたのだろう。自分のサッカー人生に足りなかったピースをやっと見つけられた。
昨年先輩方の引退試合を怪我で欠場し、応援席から見ていて寂しさと悔しさでいっぱいであったが、今年はチームとしても、個人としても最高の試合で締めくくることができ、笑顔で終えることができた。みんなの前で最後の言葉を話したときに少し泣いてしまったが、これはまたご愛敬ということで。
ここからは4年間を振り返りつつ、その時に考えていたことなどに触れていこうと思う。悩み抜いたこれまでを振り返ることで、今同じ境遇にいる後輩の助けになってほしいという思いがある。この先非常に長くなるので、ここで一度感謝の思いを伝える。
「本当に4年間ありがとうございました。」

本編

プロローグ(大学サッカーまで)

サッカーの街さいたま市浦和の少年団に入り、6歳でサッカーを始めた。サッカー大好き少年で、学年で一番上手い自信があった。1つ、2つ上の試合にも帯同させてもらっていた。トレセンにも選ばれてその大会ではユースといい試合をして、優秀選手にも選ばれて順風満帆なサッカー人生だった。しかし、プロサッカー選手になる夢は、新設された浦和レッズジュニアの1期生の選考会で周りの圧倒的なレベルの高さを知り早々に諦めた。6年生では少年団のキャプテンでありながら中学受験の影響で11月に休部。2月に受験が終わってチームに戻ったときに大会で勝ち残ってくれていたことは今でも忘れない。そんな小学生の時のサッカーの思い出は少年団時代と浦和レッズジュニア時代の2度鈴木彩艶から点を決めたことである。何度も擦っている武勇伝だが、何度でもこの自慢はさせてほしい。
中高は、その時お世話になった人、チームメイトがこれを読んだら申し訳ないが、幼い自分にとっては環境が難しすぎた。週3-4回、人工芝とは名ばかりの、フルコートの大きさの半分のサイズのグラウンドを他部活と区切ってトレシューで練習する。ゴールも1つしかなかったため、ゲームをする際は、ハンドボールのゴール2つを繋げて代用していた。改装工事の期間はコンクリートで練習していたこともあった。高2の11月で引退する人が現れ始め、高3の5月に皆強制的に引退させられる。ひとつ上の代にめちゃくちゃ上手い先輩が2人程いて、ふたつ下の代にも上手いやつがいてそこに刺激をもらいつつ過ごしたが、練習と練習の間の時間も5分、10分あいてしまうことはざらにあった。しかし、その中で、新しい刺激は城北トレセンで手に入れることができた。最終選考に体調不良で行けずにそこだけ残念だったけど、毎週木曜日、学校で部活がない日に小石川高校に出向いてハイレベルな環境で練習会ができたことは最高だった。中学の顧問が各方面に顔が効く方で、選考会の話を持ってきてくださって、さらに合格後には、学校帰りの練習参加の許可も特別に出してくださった。ここでの友人と連絡先を交換できたら良かったが、中高がスマホ禁止であいにくそれは叶わなかった。中学、高校の顧問の先生は、私立で勉学面だけでお忙しいのにも関わらず試合に帯同してくれたし、さらに外部コーチも時折来てくれた。チームメイトも熱量の差はあれど同じような難しい環境下で一緒に練習してくれた。そこへの感謝は絶対に忘れない。
大学サッカーが始まるまでの18年間、自分がチーム内で上手くて、試合に出て当たり前の環境で育ったということを理解していただけただろうか。ここからはそんな井の中の蛙が辿った苦悩と成長の大学サッカーを振り返る。

1年生

東工大には一浪の末入学した。高3の5月に高校サッカーを引退してから丸2年全くサッカーをしていなかったため、身体はかなり重かったが、入部することは入学前から決めていたこともあり練習には早くから参加した。浪人期にインスタで試合結果も追っていて非常に楽しみにしていた(その時東工大サッカー部の勝ち点が負の値で少し不安ではあったが)。その初めての練習参加、自分の上手さをみんなに見せつけようくらいに思っていたが、正直全くついていけなかった。パススピードが速すぎてボールが足元で止まらないのだ。ボールを止めることに集中すると顔が下がり、敵の寄せにあい、ボールをロストする。これにしばらくは苦しめられることになった。毎練習桑原くんに「顔を上げろ!」と怒られた記憶が鮮明にある。周りのレベルの高さに本当に驚いた。これはスタメンどころではないと瞬時に気がついた。1年生の間は身体を戻すことや、プレースピード、環境に慣れることに集中しようと思った。いやそこまでの意気込みは別に持っていなかったかもしれない。サッカーができるだけで幸せではあったからだ。 6月に入り、その自信の無さが露呈したイベントがあった。背番号決めである。登録手続きが完了し、リーグ戦を4年間戦っていくに当たってこのチームでつける背番号を決めた。Aチームの練習にすでに台頭していた竹岡が11、Bチームで頭1つ抜けていた長谷が7という番号を選んでいたなかで、自分も小さい番号をつけたかったが全く輝けていない自分があまり良い番号を選んではいけないと思い、23番にした。別に23番が良い番号出ないと言っているわけではない。プロでもレジェンド級の選手が23番をつけているし、いまの東工大の23番の栗山ももちろん東工大サッカー部のレジェンドだ。1年生の1年間は自分が23番だったけどみんな覚えているのかな。
最初はリーグ戦が進行していっても別に何の危機感もなかった。ボールボーイか観戦か、コロナで人数制限があったため自宅待機か。しかし、リーグ戦へのメンバーに選ばれたいと思ったきっかけの出来事が起こる。忘れもしない等々力での練習、キャプテンの寺倉くんが練習ごとにAB分けをしていたのだが、同期の長谷がAチームの練習に入り出したのである。これには焦りが生まれた。同期の2人目が選ばれたということもあるが、長谷は家も近く、よく話していたこともあり、自分と間でABの差が生まれることに突然怖さを覚えた。ここからはキャプテンである寺倉くんに必死にアピールした。AB混合の練習では絶対に同じグリッドに入るようにした。ポジションも東工大は背の高いフォワードが求められていて、そこでは出られないと判断し、中盤にコンバートした。ゲームでも常に寺倉くんの目に留まるようなプレーをこころがけた。どういう選手を求めているのか直接聞いたりもした。
コロナが流行って練習もリーグ戦もほとんど無かった長い夏が終わり、徐々にAの練習に絡めるようになってきた。2021年10月9日に17節のリーグ戦のメンバー発表があり、ついに自分の名前があった。緊張で一睡もできずに10日を迎えた。忘れもしないデビュー戦、創価との試合。ラスト出場機会を貰った。キーパーへの前プレが成功し、相手を一人退場させることに成功した。この試合が評価されたのか、この後の数試合はベンチ入りを果たし、そのほぼ全ての試合で途中交代させてもらった。この時の自分は試合を変えられるほどの力は全くなかったのにそこに期待をして起用し続けてくれた寺倉くんには本当に感謝している。リーグ戦に出始めてから考えることも増え、信じられないくらい成長できた。Aチームに上がった同期に触発され、リーグ戦に出場するために必死にアピールして、どうにか自分もリーグ戦のメンバーに絡めるようになったところで1年生が終わった。
プレー強度やボールを止める・運ぶ・蹴るという基礎技術の面で適応・成長することができるようになってきた1年間だった。

『1年生の余談』

コロナ禍真っ只中で、マスクを強制されていたような頃である。大学にあれだけきれいな人工芝のグラウンドがあるにも関わらずほとんど練習できなかった。ホームでのリーグ戦も禁止されていた。1年間通してあのグラウンドで練習ができてホーム開催で試合ができるこの環境がいかに恵まれているか理解しなくてはならない。それらは本当に多くの人の準備があって成り立っているものである。今まで縁の下で支えてくれた人々に改めて感謝しなくてはならない。

2年生

前線のポジションの多くを占めていた最上級生が引退し、ベンチ入りをしていた自分は代替わり早々スタメン争いに食い込むことができた。システムが3-4-3になり、その中で適性ポジションも見つけることができた。
チームでの序列も上り、個人としての調子も上がってきたこのタイミングで願ってもない出来事が起きた。ユニフォームが変わるに当たって背番号を決め直す機会が訪れたのである。さらに10番がこのタイミングで空いた。選ぶしかないとは思っていたが正直周りが上手いこのチームでこの番号を付ける自信はなかった。しかし、ここで自分の成長を妥協して10番にふさわしいプレーはできないと決めつけたら、その時点でもうこの先の大学サッカーの限界値を決めてしまっていると思い、満を持して10番を選んだ。先輩たちに10番が似合うプレイヤーと言われたりして背中を押してもらったこともありがたかった。そこまでこだわる必要はないのかもしれないが、小中高と10番を背負ってきた自分にとっては思い入れの強い番号なのである。ここで10番として認められるような選手になろうと決めた。
リーグ戦が始まってもなおスタメンで出場する機会が多かった。しかし、怪我人が復帰してきてスタメンの座を奪われてしまった。ここで愚直に頑張ればよかったが、途中交代の起用時間にもなかなか恵まれず、そこに納得のいかなかった自分は幹部の先輩(特に桑原くん、茅野くん)に反抗するようになってしまった。次第にBチームに落ち、その中で結果を出す事もできなくなってしまった。夏の中断期間に入り、AB混合の練習が増え、1年生の時にやっていた4-3-3にチームのシステムが戻り、中盤で少しずつ結果が出るようになってきた。
ここで、後期の出場機会を左右した出来事が起きる。左ウイングで試合に出続けていた長谷が大きな怪我をしたのだ。チームの戦力としてダウンして残念だし、もちろん友達であるから悲しかったが、それと同時に自分にとっては大きなチャンスであることに気がついた。中盤はポジション争いが激しく、出場機会がなかなか得られないと判断し、左ウイングに完全にコンバートした。練習でもゲームでもとにかくウイングの選手としてプレーした。足も速くないし、背も高くない、利き足が左足なわけでもない。それでもリーグ戦にスタメンで出るならここしかないと思い、とにかく考え、練習した。その甲斐あって、中段明けは全ての試合で左ウイングとして出場することができた。この期間はとにかく毎日が楽しかった。個人としてスタメンを守って成長しつつ、チームがどうしたら勝てるかまで考えることができるようになった。分析班も班長になり、毎週木曜日に部活がないにも関わらず昼休みに部室に行き、作戦版を使ってzoomでみんなに週末の相手の特徴やそれに対する戦い方を説明した。分析班自体は水曜日の練習前に集っていたが、そこで出た話をメモしてまとめて木曜日にどうしたらみんなに伝わるかいつも考えていた。今考えるとサッカーのプレーの言語化、共有力はこういうところで磨かれていったのかもしれない。分析したことを頭にいれつつ恵まれないフィジカル、アジリティを弱点にしないようにプレーすることを心掛けていた期間だった。右サイドの縦ラインがチームの強みで、その逆サイドだったこともあり、伸び伸びとプレーできた。後悔があるとしたら多くの決定機を決めきれなかったことだ。右サイドを崩してそのクロスが来るのであるが、ことごとく外してしまった。サッカーでたらればは無いが、敢えて言えば自分の得点で勝てたはずの試合もあったはずである。
2年生は一見遠回りにも見えるような1年間だった。プレシーズンまで守った中盤は復帰した怪我人たちにあっけなく奪われ、そこで納得できなかった自分は、幹部には反抗したような態度を取ってしまった。しかし最後には、思考を凝らしてポジションを変え、ウイングでプレーした。またチームのために分析班をはじめとして色々と動けたことは大切なことであった。
2年生は、自分が試合に出場するため、チームが勝つための2つの面での頭の使い方を学ぶことができた1年間だった。

『2年生の余談』

2年生の合宿で幹部決めがあった。試合に全然絡めていなかったうえに、その時の幹部に反抗していた自分は幹部をやる気にはならなかった。この時の持論として、試合に絡んでいる人が幹部をやるべきだと思っていたことも大きく影響した。しかし、今思うとそれは間違いだった。このブログを読んでいる後輩で幹部をやるかどうか迷っていたら今の立場などは一切考慮せずに幹部に立候補してほしい。

3年生

左ウイングに長谷が戻ってきて、ここでポジション争いをするメリットはないと感じ、中盤に戻った。中盤はこの時期怪我人が多く、リーグ開幕戦からスタメンで出場することができた。
怪我人が復帰してきて自分の立場が怪しくなってきた矢先、05月21日第8節の試合に向けての週で朝練に寝坊してしまう。ここからは完全に序列が落ち、不甲斐ない前期を過ごしてしまった。
しかし、3年生として、いや大学サッカーの4年間で一番変わったきっかけとなった試合が後期の1試合目第12節に訪れる。前後期折り返しとなった神奈川工科大学との2試合目である。身体のコンディションも上がってきていたことに加え、今まで先輩方のアドバイスなどは納得したものを取り入れるスタンスでいたが、この試合は素直に色々と実行した。そうしたらそれが要因となったからかは不確かであるが動きの質が一段階変わった。これは他の人の目にも明らかだったようで、良いコメントをたくさん聞いた。ビデオを見返したときにもみんなが評価してくれていた声が入っていたし、桑原くんにも直接良かったと言われた。周りに耳を傾けて愚直に頑張ることが大切ということはこの試合で理解することができた。これ以降試合中の頭のなかのもやもや感や緊張からくる視界の悪さが無くなった。大学サッカーのプレースピードに完全についていけるようになったのはここからかもしれない。それだけ大切な1試合だった。ちなみにこの試合でたまたま巻いた左手首のテーピングは今でもルーティンワークの1つになっている。そのあとは途中交代で下げられる時間が遅くなり、フィールドでプレーできる時間が増えた。今までそんなに早く変えるなと思っていたが、自分に問題があったのだということにようやく気がついた。
このあとは股関節の怪我で合宿を見学したり、治ったかと思えば足首を捻挫したりして、あまり長い時間プレーできなかった。散々お世話になったひとつ上の先輩たちの引退試合となったリーグ最終節もベンチ外から赤いメガホンを持って応援することになってしまった。勝ち点が16離れた上位の相手、工学院大学との試合。同期の篠原のアシストから長谷のスーパーゴールが決まり、その1ゴールを守り切り最高の試合のひとつになった。この試合でピッチに立てなかった悔しさ、先輩と本気のサッカーをもうできないのだという寂しさ、あとは試合結果に対する嬉しさ。その3つが重なり涙が溢れた。しかし同時に1年後は自分たちがこの試合をしなくてはならないという覚悟が生まれた瞬間でもあった。試合後に引退していく先輩方が「来年はお前のチームだ」と言ってくださって、それを常に意識して過ごそうと決めた。また個人としては、「1年後どんな選手になっていたいか」と聞かれ、それに対する答えを常に持ちながらサッカーに取り組もうと思った。
3年生の1年間は同期が幹部で本当に難しかった。幹部だった竹岡、篠原、田中は今でこそ良く話すが、この年は他の年と比べるとあまり多く話していないようにも感じる。向こうがどう思っていたのかはわからなかったが、起用される側の自分は同期の幹部となかなかフラットに話すことができなかった。もっと自分の持ってる意見を素直に直接ぶつけてみても良かったのかもしれない。
3年生は怪我にかなり苦しめられたが、リーグ戦の1試合が大きなきっかけとなって、視野が広がり、自分のプレーに確固たる自信がついた1年だった。

『3年生の余談』

怪我をしたら大小に関わらず病院に行った方がいい。どうせ湿布を処方されるだけだからと捻挫をした後に病院へ行かなかったのは大きな過ちだった。何度も捻挫をしていて包帯の巻き方、サポーターに移行する時期、リハビリの仕方など分かってきてはいたが、その時の症状をリアルタイムで医者に診てもらうべきだった。この反省はのちに自分でも生かせたから良かったが。後輩たちも怪我をしたら病院に行こう。

4年生

新チームが始動してからも怪我でしばらく動けなかった。外からひたすら練習を見守る日々となった。ひとつ下の学年である3年生が幹部ということもあって、口出しはあまりしないでおこうと4年生で話した記憶がある。このときは練習試合でも全く結果が出ず、苦しい時期だった。怪我人が多いことによりシステムを変更したことなども影響したのかもしれない。一方で、個人的にはひとつ上の代が引退した次の日から利根川の影響で筋トレを始めた。普通1年生からコツコツやるものだとは思うのだが、ここで始めた。しかし、これは今振り返っても最高な判断となった。
約5カ月の離脱から復帰してようやくサッカーができるようになった。久しぶりの有酸素運動だった上に、筋肉も少し増え、身体が重たかったが、フィジカルで勝負できるようになった感じはした。数カ月でも効果を実感することができる筋トレは偉大である。
3月のアミノバイタルカップが半年ぶりの公式戦となった。相手は1部に所属する東京大学。1点を先制してひたすら守った。4-4-2でひたすらリトリート。フリーキックで追いつかれ、pk戦で敗れるも確かな自信を手に入れることができた試合になった。この試合はシーズンを戦うにおいて自信を失わないための基準となった試合だった。
リーグ戦は正直ひとつずつすべての試合に思い出があるが、すべて書いていったらキリがないのでやめる。
5月29日。また足首を捻挫した。テーピングを巻いてその上からサポーターもしてと満身創痍で再発は時間の問題だった。筋トレという心の支えはあったが、シーズン中の怪我は受け入れるのに時間がかかった。チームにプレーで貢献できない悲しさは言葉にできない。リハビリに筋トレ、思考を凝らして1日でも早く復帰できるようにと日々考えていた。結局この足首の捻挫からの復帰には2カ月ほどかかった。足首の治療中にリーグ戦が中段期間に入った。復帰後は合宿もあったことで、体力、身体はどうにか戻った。しかし、中断明けはなかなか勝てなかった。その中で初めてコロナにもかかった。横浜市立大学戦に欠場し、横浜商科大学戦には途中出場することになってしまった。意外にも、コロナにかかったときのマインドはポジティブで、サッカーの神様が怪我をしないようにブレーキをかけてくれたんだと言い聞かせていた。ちょうど調子も上がってきたころだったから本当に危なかったのかもしれない。
引退試合となった最終節だけは少し振り返ろうと思う。アップをする前まではいつもと変わらないリーグ戦の中の1試合だと思っていて、後輩をはじめとした周囲が感傷に浸っている中で至って冷静だった。しかし、アップをして試合がいざ始まるとなるとかつてないほどの緊張感で足が震えた。そのような緊張感の中で出場していた約70分間は夢の中にいる気分だった。視界の周りにもやがかかっている感覚があったが、それにもかかわらずいつもより多くの動きが見えて、それはそれは不思議な時間だった。チームとしても、中段明けあれだけ入らなかったシュートが次々とゴールに吸い込まれた。前節はあんなに不運な形で決められたのに、今節はそれより決定的な相手のシュートがポストに当たった。気づいたら後半の頭には5-0になっていた。70分で今年攣らなくなってきていたふくらはぎが攣った。
自分が攣った試合は大体勝った試合だなということに気がついた。裏にたくさん走って競ってジャンプして、失ったらネガトラで走って。それらはトップ下の自分が裏にどんどん抜け出している試合で、チームとしてそこに長いボールを蹴れている時だったのかもしれない。これが後輩へのヒントになればいいと思う。来年トップ下をやる選手は、ビルドアップをボランチに任せて裏に抜けてほしい。まさか自分がこれに気づくのが引退試合になってしまうとは非常に残念であるが、これはまさに茅野くんと桑原くんに引退試合のひとつ前の創価大学戦のあとに直接もらったアドバイスで、それを最後に実践できたというそれだけでよかったのかもしれない。あとは後輩に託す。
ラストイヤーは12カ月中6カ月しかプレーできなかったけど本当に充実していた。筋トレと分析は特にやってよかったなと感じた。筋トレによってできるプレーの幅がかなり広がったし、分析によって試合の見方、指示能力が向上した。筋トレと分析、この2つが自分のプレーを支える軸となった。

『4年生の余談』

グラウンドのある大岡山とは離れたすずかけ台に研究室があり、練習との両立をしなくてはならなかったが、研究室の准教授・助教授の理解が深く、部活に何不自由なく参加することができた。生命理工学院に入り、すずかけ台の研究室を選んだら部活を続けられないのではと思うかもしれないが、必ずしもそうではないから安心してほしい。部活に理解を示してくださった准教授・助教授には感謝してもしきれない。

おわりに

文章に違和感が出てしまうかもしれませんが、ここからは「ですます調」にします。
4年間本当に色々な人の支えがあってここまでこれたと思っています。最終節の前後に自分の大学サッカー生活を振り替えったのですが、出てきたのは周りの方々への感謝の気持ちでした。ここで全ての方への感謝を伝えることはできませんが、書ける範囲で書けたらと思います。
試合の運営に関わってくださった先生方や、今でも熱い応援をしてくださるOB、インスタグラムやXでプロチーム並みの投稿・ハイライトを提供し続けてくれた布施は東工大サッカー部が都リーグで活動していく中でなくてはならない存在です。また社会人スタッフや副審に来てくださる方がいなくてはリーグ戦で戦うことすらできません。4年間私たちを支えてくださってありがとうございました。これからも後輩たちのチームをよろしくお願いいたします。
同じスカッドで戦った先輩方。本当にわがままで手がかかる後輩だったと思います。それでも呆れず、様々な面で面倒をみていただきました。スタメンに入ったときも、ベンチにいるときも、リーグ戦のメンバーに入れなかったときも、いつでも誰かが声をかけてくださって、本当に頼もしかったです。今年最上級学年の4年生として戦っていく中で、上の学年がいない難しさを実感しました。自分が伸び伸びとプレーできたのは先輩方のおかげだったのだと改めて認識しました。大学サッカーの楽しさを教えてくださってありがとうございました。またサッカー教えてください。
頼もしい後輩たち。時間がまだまだあるので本当に頑張ってください。何年生であってもその年が1番成長できます。最後にみんなに伝えた言葉を忘れずに、もし不安なことがあったら頼ってください。長くなってしまいますが、各学年に少しずつメッセージを送ります。まず3年生。次の1年は上の代がいなくなり、色々と教えてくれる人がいなくなります。3年生の幹部に助言を与えつつ、同期で日々高めあってチームを支えてあげてほしいです。4年生は意識ひとつで自分自身を大きく成長させられます。次に2年生。ついに幹部の代になって、色々と考えることが増えると思います。自分がメンバーに入り、試合にどう貢献するかを考えつつ、その上でチームのために動けるようになっていってほしいです。どういう形で関わるにせよ、チームを勝たせる強い世代にしてほしいです。自分の役割を全うしてください。最後に1年生。1年生は代としてもかなりまとまっているし、その中でもリーグ戦になにかしらの形で絡んだメンバーも多かったです。悔しい思いをした選手は、後輩も入ってきて、さらにメンバー争いが激化していくので色々と思考を凝らしてほしいです。あと分析にマネージャーしか来てないです。興味ある人がいたらどんどん参加するといいと思います。試合を見ることで得られる成長もあると思います。後輩たちは本当にみんな優しくて、意見があったら年齢関係なくぶつけてくれて、そのおかげで最高の関係を築くことができました。ありがとうございました。
同期へは少し照れますが、人数がとにかく少なくて大変なこともありましたが、その分仲良くできたと思います。一緒にご飯もよく食べて、たわいもない話も良くしたけど、その中でチームメイトとしてサッカーの話も多くできたし、常に高めあえる存在でした。お互いがお互いに影響し合えたこの代だから成しえたことも多くあったと思います。これからもたくさん関わっていけたらうれしいです。土日に試合の応援に行って、その前後でそれぞれの近況報告でもしましょう。
最後に多くのサポートをしてくれた周りの人に感謝したいです。一人暮らしをさせてくれた両親、いつも応援してくれた兄弟をはじめとする家族は、常にポジティブに背中を押してくれました。自分が大学生になっても大好きなサッカーを環境に苦労せずにできたのは間違いなく家族のおかげです。家族以外にも、部活の悩みを聞いてくれたり、送迎をしてくれたり、試合前にご飯に行ってくれたり、応援に来てくれたり、筋トレを教えてくれたりと、ここには書ききれないくらい様々な面でサポートしてくれた人たちがいて、部活動を楽しく続けられました。本当にありがとうございました。

チームの勝利のために無我夢中で走り続けていた。

テーピングで固められた右足首と、疲労で攣りかけているふくらはぎとがもう限界だ。

頭も働かなくなってきた。

ボールが外に出て、ホイッスルが鳴った。

熱狂したピッチ内外が静まる瞬間を感じた。

ふとピッチサイドを見ると赤の10が見えた。

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